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更新日:
2018年7月15日
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国名:インドネシア共和国
The Republic of Indonesia
インドネシアという言葉は、ギリシャ語の「インドス(indos)」と「ネソス(nesos)」という二つの単語から成っており、“東インドの島々“という意味を持っています。
インドネシアは世界最大の島嶼国家であり、主要な5島と中規模な群島を含めた約 17,000以上の島々から成り立っています。このうちのおよそ9,000の島々に約2億2千8百万人もの人々が暮らし、約490の民族集団がそれぞれの多様な民族文化を継承し、美しい自然と動植物の多様性の保存に貢献してきました。
首都:ジャカルタ(Jakarta)(日本との時差:−2時間) 人口864万人:2003年推計
人口896万人:2006年政府推計
人口914万人:2008年政府推計
人口960万人:2010年、インドネシア政府統計
人口1,017万人:2015年、インドネシア政府統計
古くはヒンドゥ教国、パジャジャラン王国(Padjadjaran:1333年建国)のスンダ・クラパ(Sunda Kelapa:397年〜1527年)という小さな港町であった。13世紀頃、イスラムの布教活動が広まってきており、パジャジャラン王はイスラム勢力に対抗するためん、ヨーロッパから最初にやってきたポルトガルと1522年に協定を結び、軍事援助の代償に胡椒の提供を約束し、スンダ・クラパをポルトガルに提供した。
1527年、この地に入り、パジャジャラン王国を滅ぼしたバンテン王国(Banten)のイスラム王、スーナン・グヌンジャティ(本名をファルテン、またはファタヒラ(Fatahillah)と言う)は、ポルトガルも追放し、スンダ・クラパをバンテン王国の封土とし「ジャヤ・カルタ(Djajakarta:偉大なる勝利):1527年〜1619年」と改名した。このポルトガル勢を撃退したとされる6月22日が、ジャカルタの創立記念日として定められている。
16世紀末 この海域におけるポルトガルの香辛料独占に対抗するためにオランダが進出してきた。オランダは、西ジャワの王族の内紛に介入し、その一方に軍事援助を行う見返りとして、ジャヤ・カルタを手に入れた。
オランダ東インド会社の第4代総督、ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(Jan Pieterszoon Coen)は1619年、ジャヤ・カルタに要塞の建設を始め(完成は1645年)、この地をオランダ本国の先住民、バタウィ(Batavi)にちなんで、(Batavia:1619年〜1942年)と改称した。以後は、オランダの植民地の拠点として発展していった。
第2次世界大戦中の1942年、日本軍がこの地を占領し、オランダの植民地支配が終了した。そして、日本軍は旧称にちなんだジャカルタ(Jakarta)と改称した。終戦後、スカルノ(Sukarno)らが、1945年8月17日にジャカルタでインドネシア共和国の独立を宣言したが、復帰したオランダ軍によって、再びジャカルタは占領された。
このため、オランダとの独立戦争が始まり、1949年にインドネシア側の勝利で集結し、オランダ軍はジャカルタから撤退した。1949年11月27日、インドネシアはオランダから法的に独立し、ジャカルタがインドネシア共和国の首都となった。
面積:1,922,570km2(日本の約5.1倍)
インドネシアは大小1万7,000もの群島からなる。そのうち6,000の島に人が住んでいる。
陸地の面積:1,826,440 km2
地理:北緯6度〜南緯11度、東経95度〜141度に位置し、赤道を真ん中にして東西5,100km、南北2,000kmの領域に大小1万7,000もの島々が点在する世界最大の群島国家です。
人口:
2億1,294万1,810人(1998年推計)
2億1,700万人(2004年政府推計)
2億2,200万人(2006年政府推計)
2億2,800万人(2008年政府推計)
約2億3,800万人(2010年、インドネシア政府統計)
約2.55億人(2015年、インドネシア政府統計)
2億5,871万人(2017年、中央統計局、推計値)
民族構成:
ジャワ人45%、スンダ人14%、Madurese 7.5%、coastal Malays 7.5%、その他26%(27種族に大別されている)
人口増加率:1.49%(1998年推計)
出生率 :人口1,000人当たり23.1人(1998年推計)
死亡率 :人口1,000人当たり 8.22 人(1998年推計)
乳幼児死亡率(1歳以下):出生1,000人当たり59.23人(1998年推計)
平均寿命 :男性:60.28歳、女性:64.81歳(1998年推計)
言語:インドネシア語(Bahasa Indonesia)
インドネシア語が公用語です。これはマレー語に近い言語で、独立後、国語として定められました。欧州語を基本としたローマ字表記を採用しています。しかしインドネシア各地では今でもその地域の言語、例えばバタック語、スンダ語、ジャワ語、バリ語などが使われており、583種以上の言葉があります。英語も比較的よく通じます。
宗教:
インドネシアは憲法で信仰の自由を認めており、これは国家五原則(パンチャシラ:PANCASILA)の第一原則に“全能の神への信仰”として明記されています。国民の約85%はイスラム教徒であり、5%がキリスト教徒、残りはヒンズー教・仏教などとなっています。国内のいたる所に、各宗教の教会や寺院が建てられています。 ・イスラム教:87%、プロテスタント:6%、ローマンカトリック:3%、ヒンドゥ:2%、仏教:1%、その他:1%(1985年、宗教省統計)
・イスラム教:88.1%、キリスト教:9.3%(プロテスタント:6.1%、カトリック:3.2%)、ヒンズー教:1.8%、仏教:0.6%、儒教:0.1%、その他:0.1%(2010年、宗教省統計)
・イスラム教:87.21%、キリスト教:9.87%(プロテスタント:6.96%、カトリック:2.91%)、ヒンズー教:1.69%、仏教:0.72%、儒教 0.05%、その他:0.50%(2013年、宗教省統計)
識字率(15歳以上):
全人口:83.8%(男性:89.6%、女性:78%)(1995年推計)
労働力:6,700万人
職業(1995年推計):
農業:44%、製造業:13%、建設業:5%、運輸および通信:4%、その他:34%
独立:1945年8月17日(独立宣言:1949年11月27日、インドネシアはオランダから法的に独立国となった)
憲法:1945年8月。1949年の連邦憲法と1950年の臨時憲法によって廃止された。1959年7月5日復活した。
◎国旗
紅白旗。1945年の独立時に制定された国旗。赤と白は13世紀末の発祥と言われる伝統的な国民色で、白色は潔白を、赤色は勇気を表わし、この2色の組み合わせで潔白の上に立つ勇気という意味をもつ。また、同時に赤と白は、太陽と月を表している。配色はモナコ国旗と同じだが、インドネシア国旗は縦横比が2:3である。
◎国歌
Indonesia Raya(インドネシア・ラヤ)
◎政治体制(2017年8月15日)
政体 :共和制(大統領責任内閣)
元首 :ジョコ・ウィドド大統領(Ir. H. Joko Widodo)
就任:2014年10月、就任。任期5年。
議会 :(1)国会(DPR):定数560名(任期5年)
(2)地方代表議会(DPD): 定数132名(任期5年)
その他、憲法の改正、大統領・副大統領の任期中の解任等を決定できる国民協議会(MPR)がある(692名(国会議員560名及び地方代表議員132名で構成))
選挙権:17歳以上の国民すべてと、年齢に関わらず結婚している人。
◎内政
立法府:一院制
内閣は大統領の補佐機関で、大統領が国務大臣の任免権を有する。
1998年3月10日、国民評議会(MPR)は、次期大統領にスハルト大統領を選出し、スハルト大統領の7選が決定した。
1998年5月21日、スハルト(Gen. (Ret.) SOEHARTO:1968年3月27日〜1998年5月21日)は大統領を辞任し、ハビビ副大統領が大統領に就任した。
1999年6月、新しい制度の下で総選挙実施。10月、国民協議会においてアブドゥルラフマン・ワヒッドが第4代大統領に選出。
2001年7月、ワヒッドは国民協議会特別総会で解任され、同日、メガワティ副大統領が大統領に就任。
2004年10月、初の大統領直接選挙の結果、ユドヨノ大統領就任。
2007年5月初旬、連立与党間のバランスを維持するため、第2次内閣改造を実施。汚職疑惑を問われユスリル国家官房長官などを更迭したが経済閣僚は留任。
2009年7月 総選挙委員会が大統領選挙の最終結果を発表。ユドヨノ−ブディオノ組が60.80%の得票で圧勝し、メガワティ前大統領の26.79%、カラ副大統領の12.41%を大きく上回った。ユドヨノ組が過半数の得票となったため、大統領選挙は第1回投票で決着し、確定した。10月には新政権がスタートする。
2009年10月、ユドヨノ大統領は第2期政権の閣僚名簿を正式に発表した。第1期政権を踏襲した「第2統一インドネシア内閣」としたが、実務型の第1期内閣とは異なり、閣僚ポスト34のうち20ポストに政党出身者を割り当て、連立政党への配慮が色濃い均衡重視の内閣となった。
2009年10月、正副大統領の就任宣誓式が国民協議会で行われ、ユドヨノ大統領、ブディオノ副大統領が就任し、2014年までの5年間の任期が始まった。ユドヨノ大統領は就任演説で、国民の福祉向上、民主主義の強化、公正の拡大を3本柱として、「繁栄、民主主義、公正」を実現していくと語った。また、「インドネシアはできる」という不屈の精神を持つよう国民に呼びかけた。
◎軍事力(2017年8月15日)
・予算:
12兆7,549億ルピア(2002年度)(国家予算に占める割合:3.71%)
47.5兆ルピア(2011年予算)
108.3兆ルピア(2017年国家予算)
・兵役:志願制
・兵力:
正規軍30.2万人(陸軍23.0万人、海軍4.5万人、空軍2.7万人、その他予備役40.0万人、03/04年版ミリタリーバランス))
正規軍約30.2万人(陸軍約23.3万人、海軍約4.5万人、空軍約2.4万人、IISS, Military Balance 2011)
正規軍39万5,500人(陸軍30万400人、海軍6万5,000人、空軍3万100人、(IISS, Military Balance 2017)
◎経済:
・GDP(名目、億ドル):
1,641(2001年、インドネシア政府統計)
2,038(2002年、インドネシア政府統計)
2,433(2003年、インドネシア政府統計)
2,576(2004年、インドネシア政府統計)
5,102(2008年、世銀統計)
5,396(2009年、世銀統計)
7,551(2010年、世銀統計)
8,930(2011年、世銀統計)
9,179(2012年、世銀統計)
9,105(2013年、世銀統計)
8,885(2014年、世銀統計)
8,619(2015年、世銀統計)
・一人当りGDP(名目、ドル):
673(2001年、IMF)
930(2002年、IMF)
1,091(2003年、IMF)
1,165(2004年、IMF)
2,349.8(2009年、インドネシア政府統計)
2,977.0(2010年、インドネシア政府統計)
3,498.2(2011年、インドネシア政府統計)
3,562.9(2012年、インドネシア政府統計)
3,666.8(2013年、インドネシア政府統計)
3,531.9(2014年、インドネシア政府統計)
3,374.5(2015年、インドネシア政府統計)
3605.1(2016年、インドネシア政府統計)
・経済成長率(実質、%):
3.8(2001年、インドネシア政府統計)
4.3(2002年、インドネシア政府統計)
4.5(2003年、インドネシア政府統計)
5.1(2004年、インドネシア政府統計)
6.4(2010年、インドネシア政府統計)
6.2(2011年、インドネシア政府統計)
6.0(2012年、インドネシア政府統計)
5.8(2013年、インドネシア政府統計)
5.6(2014年、インドネシア政府統計)
4.8(2015年、インドネシア政府統計)
5.0(2016年、インドネシア政府統計)
・物価上昇率(%):
12.6(2001年、インドネシア政府統計)
10.0(2002年、インドネシア政府統計)
5.1(2003年、インドネシア政府統計)
6.4(2004年、インドネシア政府統計)
2.8(2009年、インドネシア政府統計)
7.0(2010年、インドネシア政府統計)
3.8(2011年、インドネシア政府統計)
4.3(2012年、インドネシア政府統計)
8.4(2013年、インドネシア政府統計)
8.4(2014年、インドネシア政府統計)
3.4(2015年、インドネシア政府統計)
3.0(2016年、インドネシア政府統計)
・失業率:
15%。完全雇用でない者50%(2004年、インドネシア政府統計)
5.0%(2016年)
・主要産業(1998年推計):鉱業(石油、LNG、アルミ、錫)、農業(米、ゴム、パ−ム油)、工業(木材製品、セメント、肥料)
・主要産業(2011年、インドネシア政府統計、カッコ内は2011年における実質GDP構成比):
製造業(24%):輸送機器(二輪車など)、飲食品など
農林水産業(15%):パーム油、ゴム、米、ココア、キャッサバ、コーヒー豆など
商業・ホテル・飲食業(14%)
鋼業(12%):LNG、石炭、ニッケル、錫、石油など
・主要産業(2016年、インドネシア政府統計、カッコ内は2016年における実質GDP構成比):
製造業(20.51%):輸送機器(二輪車など)、飲食品など
農林水産業(13.45%):パーム油、ゴム、米、ココア、キャッサバ、コーヒー豆など
商業・ホテル・飲食業(16.11%)
鉱業(7.20%):LNG、石炭、錫、石油など
建設(10.38%)
運輸・通信(8.84%)
金融・保険(4.20%)
行政サービス・軍事・社会保障(3.86%)
◎総貿易額(億ドル)(インドネシア政府統計)
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輸出
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輸入
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2000年
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621.24
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33,515
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2001年
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563.21
|
30,962
|
2002年
|
571.59
|
31,289
|
2003年
|
610.58
|
32,551
|
2004年
|
715.85
|
46,525
|
2005年
|
8.566
|
577
|
2006年
|
1,008.00
|
610.7
|
2007年
|
1,141.00
|
744.7
|
2008年
|
1,370.20
|
1,291.90
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2009年
|
1,165.10
|
968.3
|
2010年
|
1,577.80
|
1,356.60
|
2011年
|
2,035.00
|
1,774.40
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2012年
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1,900.2
|
1,916.9
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2013年
|
1,825.5
|
1,866.3
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2014年
|
1,762.9
|
1,781.8
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2015年
|
1,502.8
|
1,426.9
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2016年
|
1,444.3
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1,356.5
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◎主要貿易品目
・輸出
石油・ガス(25%)、輸送用機器・部品(17%)、繊維・衣類(12%)(2003年、インドネシア政府統計)
石油・ガス(20.4%)、鉱物性燃料(13.5%)、動物・植物油(10.6%)(2011年、インドネシア政府統計)
脂肪・油・蝋(13%)、鉱物燃料・油(11%)、電子機器(6%)(2016年、インドネシア政府統計)
・輸入
一般機器・輸送用機器(26%)、燃料・潤滑油(24%)、化学原料・製品(16%)(2003年、インドネシア政府統計)
石油・ガス(22.9%)、一般機械機器(13.9%)、機械・電機部品(11.5%)(2011年、インドネシア政府統計)
一般機械(18%)、電子機器(13%)、プラスチック・同製品(6%)(2016年、インドネシア政府統計)
◎主要貿易相手国
・輸出
日本(21%)、米国(13%)、シンガポール(8%)(2003年、インドネシア政府統計)
日本(16.6%)、中国(11.3%)、シンガポール(9.1%)(2011年、インドネシア政府統計) 中国(11.6%)、米国(11.2%)、日本(11.1%)(2016年、インドネシア政府統計)
・輸入
日本(16%)、中国(12%)、シンガポール(11%)(2003年、インドネシア政府統計)
中国(14.8%)、シンガポール(14.6%)、日本(11.0%)(2011年、インドネシア政府統計)
中国(22.7%)、シンガポール(10.7%)、日本(9.6%)(2016年、インドネシア政府統計)
◎経済概況
1997年7月のアジア通貨危機後、政府はIMFとの合意に基づき、経済構造改革を断行。2004年末から2005年初めにかけて個人消費や輸出に支えられ経済は好調であったが、その後、石油燃料価格の値上げに端を発するインフレと高金利により成長率は鈍化傾向。
政治社会情勢及び金融の安定化、個人消費の拡大を背景として、2001年に3.6%であった経済成長率は、2005年以降5%後半〜6%台を達成。
2009年には世界金融・経済危機の影響を受けたものの、4.6%という比較的高い成長率を維持し、2010年は6.1%、2011年も6.5%という堅調な経済成長を達成。2010年には一人当たり名目GDPが3,000ドルを突破。2011年に「経済開発加速・拡大マスタープラン(MP3EI)」が発表され、全国各島にインフラ網で連結された経済回廊を形成する構想が明らかにされた。同プランでは、2025年までに、名目GDPを2010年比で約6倍に増加させ、世界の10大経済大国となる目標を掲げている。
◎在日インドネシア人:
42,850人(2016年12月末現在、入管統計)
◎在留邦人数:
19,312人(2016年10月1日現在、在留届に基づく)
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☆インドネシア生活情報
◎通貨
通貨単位はルピア(Rupiah)。一般に「Rp.」と表記される。
・紙幣
1,000、2,000、5,000、10,000、20,000、50,000、100,000の7種類。
・硬貨
50、100、200、500、1,000の5種類。
ビンタン島内はシンガポールドル、アメリカドルも使用も可能です。円は、ほとんど使えません。
◎為替レート
100 Rp =1.40 円(2003年9月)
100 Rp =1.10 円(2004年11月)
1,000 Rp =8.5 円(2012年11月)
1US$=9,653 Rp(2012年12月4日、インドネシア中央銀行)
◎時差(2002年4月)
インドネシアは東西5,100kmに多くの島が広がっているので、東部時間、中部時間、西部時間の3つの時間帯に分けられています。
1. 東部(イリアン・ジャヤ(ニューギニア島)):日本時間と同じ。
2. 中部(カリマンタン島やスラウェシ島、バリなど):−1時間。
3. 西部(スマトラ島やジャワ島):−2時間。
◎ビザ(2013年2月15日)
2004年2月1日より査証免除が廃止され、入国には査証が必要になりました。ただし、観光等の目的で30日以内の滞在であれば、ジャカルタおよびデンパサール空港への到着時にビザ取得が可能です。
2010年1月26日より、取得可能なビザは30日まで滞在可能なビザ(US$25.00)のみになりました。(7日以内の滞在が可能なビザ(US$10.00)は廃止されました。)
現地空港でのビザ発給のためには、米国ドルが必要です。日本円での支払いも可能ですが、窓口での混雑をさけるため、あらかじめ米国ドルを用意した方が良いでしょう。また、VISA発給時に渡されるレシートはインドネシアを出国するまで所持していた方が良いです。
なお、インドネシア入国時には、パスポートの残存有効期間が6ヶ月以上、必要です。(有効期間が満たない場合には送還されます)。
機内で配布される入国カードに必要事項を記入し、パスポートと、帰りの航空券(または、第三国に渡る航空券)と一緒に審査官に提示してください。
・到着査証(短期訪問査証)
入国時の空港、港にて到着査証(短期訪問査証VKSK/Visa Kunjungan Saat Kedatangan)が取得できます。
30日有効(25ドル)のみ。滞在延長、他の査証への切替は不可です。
手続きは、空港、港にて料金を支払うと、旅券にスタンプまたはステッカーが貼られるという簡単なものです。
<到着査証の適用空港、港>
ジャカルタ、デンパサール、スラバヤ、メダン、ペカンバル、マナド、パダンの7空港と14の港。
・入国時の指紋採取等の試験運用
2009年10月より、入国時の指紋採取、写真撮影が試験的に運用開始となりました。採取はランダムに行われます。なお、長期滞在者(KITAS等所持者)と、既に指紋等を移民局に登録済の人は対象外です。
◎通関
・持ち込みの制限
通貨:外貨及び現地通貨は、1億ルピア相当額以上は申告が必要。
タバコ(21歳以上):紙巻タバコ200本、または葉巻25本、または刻みタバコ100gまで。
酒類(21歳以上):酒類1Lまで。
香水(21歳以上):香水適量。
その他のもの:土産品は1人あたり250US$または、1家族1,000US$相当まで。
・持ち込み禁止品(代表的なもの)
麻薬、武器、爆発物、危険物、ポルノグラフィ、漢方薬、中国語表記の本。
・持ち出しの制限
タバコ(21歳以上):紙巻タバコ200本、または葉巻50本、または刻みタバコ1,000g。
酒類(21歳以上):酒類2L。
その他のもの:身の回り品は100万ルピア相当。
・持ち出し禁止品(代表的なもの)
べっこう製品。
・通関に関する注意
申告が必要、かつ、内容を確認される可能性があるもの:映画フィルム、録画済みのビデオテープ、レーザーディスク及び、コンピューターソフトなど。
◎電気事情(2002年4月)
電圧は220V、周波数50Hz。プラグは丸ピン2本足のCタイプ。日本で購入した電化製品を使用する場合には、変圧器とアダプターが必要になります。
◎クレジットカード
クレジットカードは、中級以上のホテルはもちろん、旅行者向けのショップ、レストランなどでは問題なく使用できます。都市であればほとんどの商店が、クレジットカードによる支払いを取り扱っています。
カード払いの際、円での支払いにすると、3〜5%の為替手数料が掛かり、現地通貨では1.6%程度の事務手数料が掛かります。
支払いの際、何も聞かれずに「円決済」にされてしまうこともあるので、必ず、サインをする前に明細を確認して決済方法を選ぶ。もちろん、金額の確認も忘れずにして下さい。
◎チップ(2013年2月15日)
チップの習慣はありませんが、高級ホテルなどでは一般化しつつあります。ホテルなどでボーイに荷物を持ってもらったり、ルームサービスやハウスキーピングを頼んだ時には、2,000ルピアぐらい渡しておくと、その後も何かとサービスしてくれます。
タクシーやレストランでも親切にしてもらった時には、気持ち程度、渡すとよいでしょう。あまり神経質になる必要はありませんが、チップを渡すのと渡さないのとでは、その後の対応が全然違ってきます。空港のポーターには、荷物1個につき3,000ルピア程度のチップを渡しましょう。
サービス料を含まないレストランでは料金の5〜10%を渡します。また、タクシーを1日チャーターした場合は、料金の5〜10%程度が目安です。
◎ビジネスアワー
インドネシア人の朝は早く、まだ日の昇らないうちから起きて、朝食をすませます。官公庁、会社、銀行、商店は、朝8:00から始まり、観光スポットも7:00頃から開いています。
ただし、閉まるのも早く、官公庁は15:00、銀行は14:00、商店は20:00くらいまで開いていますが、昼休みは3〜4時間、閉まります。また、金曜日はイスラム教の昼の集団礼拝があるので、官公庁は午前中のみ開いています。
◎電話(2005年11月)
・国内電話
公衆電話には、コイン式のほか、カード式のものがあります。
・国際電話
日本へ電話をかける場合は、直通とオペレーターを通す方法の2種類あります。直通の場合は、国際電話識別番号001、日本の国番号81、市外局番から初めの0を取った番号、相手の電話番号をダイヤルします。日本の各電話会社を利用し、電話することもできます。
◎水
水道水は飲まずに、市販のミネラルウォーターを購入した方が良いでしょう。また、レストラン等でも氷の入った飲み物に注意をした方が良いでしょう。
◎車(2002年4月)
車は右ハンドル(左側通行)です。
◎タクシー
ジャカルタには様々なタクシー会社があります。高級車はゴールデンバード、シルバーバード(メルセデス・ベンツなど)、一般車ならブルーバード(ブルー色)が良い。 その他にもタクシー会社はありますが、値段が高かったり、強盗にあったり、悪質なトラブルに巻き込まれる可能性があります。
街中では、ホテルやショッピングセンターのタクシー乗場でブルーバードを簡単に拾うことが出来ます。ただし、列を作って並んでいることもあります。
◎国際電話(2002年4月)
国番号:62
◎コンビニエンスストア
ジャカルタやバリ島中心部には24時間営業の店が多い。
◎気候:
典型的な熱帯性気候です。4月から9月にかけては南西から吹いてくる季節風の影響で乾期となり、10月から3月までは北東からの季節風によって雨季となり、12月と1月は降雨量が最も多くなります。また、雨季と乾期の以降は緩やかです。
平均気温は年間を通じて21℃〜33℃程度で、湿度は季節によって77〜90%の範囲内で変化します。しかし山岳地帯では気温も湿度もずっと下がるので注意して下さい。
◎姓名
インドネシア人の名前は、一般的に、苗字(姓)はないようです。
◎祝祭日(2009年8月)
2009年のインドネシアの国定祝日は以下の通り。元日、独立記念日、クリスマス以外の祝日は、毎年独自の周期で変わります。バリ島のお盆にあたるガルンガン(2009年は3月18日と10月14日)の前後数日間も慣例として閉まる店が多いです。
1月1日:新年
1月26日:イムレック(中国暦新年)
3月9日:モハメット降誕祭
3月26日:ニュピ(サカ暦新年)
4月10日:聖金曜日
5月9日:ワイサック(仏教大祭)
5月21日:キリスト昇天祭
7月20日:モハメッド昇天祭
8月17日:インドネシア共和国独立記念日
9月21〜22日:イドゥル・フィトリ(イスラム教の断食明け大祭)
11月27日:イドゥル・アドハ(犠牲祭)
12月18日:イスラム暦新年
12月25日:クリスマス
◎安全とトラブル(2013年2月15日)
・スリ
ジャカルタやジョグジャカルタの繁華街、市内バス、駅構内などでは被害が多い。旅行者が集まるエリアでは周囲に注意を配り、貴重品はホテルの金庫に預けた方が良い。
バス内での集団スリ、ホテルのロビーやレストランでの置き引き、路上での置き引きが跡を絶ちません。周囲に気を配る、荷物から目を離さない、一人歩きは避けるなど、気を引き締めて行動しましょう。
・バイクの引ったくり
バリ島のクタ&レギャンなど、旅行者が多い道路で被害が多発している。貴重品は持ち歩かず、バッグは体の前か、路肩側にする。
・両替トラブル
バリ島の観光エリアの両替商で、お金を少なく渡されるケースが頻発している。一度立ち去るとクレームは受け付けてもらえないので、お金を受け取ったらすぐに確認する。なるべく銀行や専門のマネーチェンジャーを利用する。
・トイレ
トイレは「カマル・クチル(Kamar Kecil)」、または「トイレッ(Toilet)」で通じる。町なかに公衆トイレはないので、レストランやファストフード店を見つけて利用する。観光スポットには公衆トイレもあるが、あまり掃除が行き届いていない場合もあるので注意が必要。
通常、トイレットペーパーはない。水溜や水が入ったバケツがおいてあるので、ひしゃくで水をすくって洗う。インドネシアでは左手を使って洗い流すのが習慣です。
大きなショッピングモールなどの便所は、設備は整っているのですが、トイレットペーパーがきれている場合が多いです。
・喫煙
2006年から禁煙条例がスタートしたジャカルタでは、公共施設、宗教行事開催の場所、公共交通機関などが禁煙になった。指定された場所以外でタバコを吸うと、最悪罰金を科せられる。
・写真撮影
寺院での撮影は禁止。博物館や美術館なども撮影禁止のところが多いので、確認が必要。また、撮影可能でもフラッシュの使用は禁止というところもある。
・左手は不浄の手
特にバリ島で気をつけたいのは、宗教上、左手は不浄の手とされていること。食事や握手をする時、人にものを渡す時に左手は使わない。また、人の頭は神聖とされているので触れない。
・年齢制限
観光スポットなどの入場料には、12歳以下の子供料金を設定している場合もある。飲酒や喫煙の年齢制限は法律では規制していない。慣例として17歳前後からたしなむ人が多い。
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◎略史
1890年、ユージン・デュボワ博士によって、最初のジャワ居住者と考えられているジャワ原人(ピテカントロプス・エレクトス)の化石が発見されました。中部ジャワのトリニル村近くで発掘されたこの化石は50万年前のもので、その後も他の化石が発掘されています。
紀元前3,000年から500年ころ、モンゴル系のマレー人が中国やベトナム辺りからインドネシアへ移住し始め、新石器・青銅器・鉄器などの新時代の文化やオーストロネシア地域(太平洋中南部の諸島)の言語を伝えました。
紀元前1世紀にインドの貿易商たちが大挙してインドネシアにやってきたため、インド文明の影響を受けるようになりました。インド人はヒンドゥー教文化と仏教文化をもたらしました。
やがて7世紀ころには、ヒンドゥー王国や仏教王国が栄え、壮大な建築物や寺院が数多く建立されました。ボロブドゥールやムンドットなどの素晴らしい遺跡が今も残されています。この時代にスマトラのスリウィジャヤ王国が栄え、東南アジアで最も強大な王国として600年間勢力を誇りました。
13世紀ころ、更に強大なヒンドゥー王国マジャパイトが東ジャワで台頭し、その後200年間の間にインドネシア全域とマレー半島の一部を統合、支配しました。インドネシア史における黄金期であるこの時代の名残は、ジョグジャカルタ付近のプランバナン寺院群や東ジャワのペナタラン寺院・ディエン高原の遺跡群など、ジャワ島内のいたるところで見ることが出来ます。
13世紀には、イスラム勢力の到来があり、モンゴルによる最初のインドネシア侵略もありました。13世紀後半には北スマトラの小イスラム国家が造られ、スマトラからジャワやマルク諸島まで、イスラム商人が島と島との取引で往来する間にイスラム教は広まっていきました。ヒンドゥー教や仏教は、イスラム教におされやがて衰退していきました。
1292年にマルコ・ポーロがヨーロッパ人としてジャワに最初の足跡を印しましたが、本格的にヨーロッパ勢力が侵入してきたのは16世紀になってからでした。
1511年、ポルトガルの第2代総督アフォンソ・ダルブケルケがマラッカからバンテンやドゥマクへ入り、当時のイスラム王朝諸国を支配しました。
17世紀になると、オランダ人たちが進出してきてポルトガル人に代わり、インドネシア全域にわたる支配を始めました。
1602年、オランダは連合オランダ東インド会社を設立して香料とコーヒーの輸出を独占し、1619年にジャワに総督を置いてインドネシアをオランダの植民地帝国としました。オランダはジャカルタをバタビアと改名しました。以後、第二次世界大戦が始まるまでオランダ支配が続いたのです。
オランダ領東インド(スマトラ、ジャワ、スラウェシ、カリマンタン、マルク、ニューギニア)と総称されたこの地域は、1811年から1816年までの短期間、英国の支配下にありました。ジャワ及びその属領の英国副総督トマス・スタンフォード・ラッセル卿は、植民地政策下でのリベラルな姿勢とジャワ史に関する研究とで知られた人物です。
英国支配から再びオランダ支配に戻った頃から、被植民地支配から抜け出そうとするインドネシアの独立運動が盛んになり、各地で反乱と鎮圧が繰り返され、次第に激化していきました。それは第二次世界大戦が始まり、オランダ軍が日本に敗れるまで続きました。
1928年、スカルノらによりインドネシア国民党が結成され、公然と独立を呼びかけました。
第二次世界大戦中の1942年、日本軍が諸島を占領しました。インドネシアは、当初、日本によって、独立が達成されることを期待していました。しかし日本の軍政は、オランダ統治時代より悲惨なものだったようです。強制労働によって多くの国民が死に、天然資源、食糧の搾取により農業生産は低下し、飢饉が襲い、餓死者が多数出ました。反乱も多発し、日本軍により鎮圧されました。
日本の無条件降伏の2日後、1945年8月17日、スカルノはインドネシア独立を宣言しました。しかし、インドネシアの再植民地化を狙うオランダは武力で制圧しようとし、双方で戦闘が始まりました。インドネシア軍の抵抗と国際世論の非難により、オランダは植民地化をあきらめ、1949年12月、オランダのハーグにおける会議で、独立が合意されました。
1950年8月、完全独立が達成され、スカルノが、大統領に就任しました。議会制民主主義の期間後、1957年、スカルノは議会を廃止し、戒厳令を宣し、政府による独裁主義的政治を始めました。スカルノは、それを指導民主主義と呼びました。
スカルノの権力簒奪に対し、1958年、スマトラやスラウェシで反乱が起きました。しかし、スカルノによって鎮圧されてしまいました。スカルノは、国連から脱退し、経済の社会主義化を計画しました。
1965年9月30日、軍部共産主義グループによるクーデターが起きました。これに対し、スハルト陸軍戦略予備隊司令官が、クーデターを鎮圧しました。これはインドネシアで「9・30事件」と呼ばれています。このクーデターの鎮圧によって、スハルトの実権が拡大しました。
しかし、スカルノ大統領は、クーデターへの関与を疑われ、その権威が低下し、大統領職を剥奪されました。(1970年6月死去)
1967年3月、スハルトはスカルノ大統領に代わり、大統領代行となりました。
1968年、スハルトが大統領に就任しました。動乱のスカルノの時代と全く対照的に、インドネシアはスハルトの下で、西側諸国の投資や援助を求め、インドネシア経済を急速に成長させていきました。しかし、その一方で、1975年の東ティモールへの度重なる侵略と1976年の併合、1991年の東ティモールのディリでの虐殺、政権主流派の経済利権の独占、1994年6月の政府を批判した雑誌の発禁処分、などの問題があります。多くの東ティモール人とイリアンジャヤのパプア人が、インドネシア共和国への強制的な帰属を拒否し、インドネシアの占領に抵抗し続けています。
1998年:ハビビ、スハルトに代わり大統領に就任。
1999年:アブドゥルラフマン・ワヒッド大統領、メガワティ副大統領選出。
2001年:メガワティ大統領就任
2004年:ユドヨノ大統領就任(第6代大統領) 2009年:ユドヨノ大統領再任
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